5月2日(火)
連休真っ只中!
五十路も近いと言うのに、時間の使い方の下手な親父は・・・
毎晩「独り言」も言えずに黄金週間に突入してしまった。

毎年5月4日は、隣街の「四倉」の諏訪神社の御神輿を担ぐことに決めている。
海にガンガン入っていく壮絶な御神輿だ。
もう20年以上担いでいるのだが、次の日からロボットの様な動き方になってしまうのだ。

続く・・・

 4月6日(木)
アイ高野さんの訃報を聞いてから、2年前のカップスのLIVEにいらっしゃった方が飲みに来て下さる。
「俺と同い年なんだ」と常連のwさん。

竹田和夫さんやミッキーさんのBBSを訪ねるとグッときてしまい、自分なんかは何も言えなくなってしまう。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


アイ高野さんの正式な追悼文です。

アイ高野さん 追悼文
2006年4月1日、名ドラマー&名ヴォーカリストとして活躍されたアイ高野さんが急性心不全のために55歳という若さでお亡くなりになられました。ザ・カーナビーツのドラマー兼ヴォーカリストとして活躍し、1970年にザ・ゴールデン・カップスに加入。「フィフス・ジェネレーション」「ライヴ!!ザ・ゴールデン・カップス」「ロックンロール・ジャム’70」に参加し、カップスの二代目ドラマーとして解散まで活躍しました。
ここにアイ高野さんのご功績と、いつも笑顔で周りを明るくさせた人柄を偲び、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


モッチンさんはカップスが解散した時の最後のドラマーだった。
解散後も契約が残っていた沖縄のコンサートが伝説のラストステージだ。

その時のモッチンさんの有名なインタビューがある。

ゴールデンカップスは、曲が「コミュニケーション ブレイク ダウン」とかツェッペリンとかやっていて対バンは、紫のドラムになったチビがリーダだったバンドキャナビス。
僕のドラムを使いまわしにすることにした。
ニューイヤーズイヴの時に ディブが「長い髪の少女」をやろうと言って「えーっこんなのやらなくていいよ」「でも一応カップスだからさ」とやる事にしたけどお客は、外人ばっかりで長い髪の少女なんて誰もわからなかった。
ベースが譲ちゃん(柳ジョージ)で、エディで俺がドラムでキーボードは、ジョン山崎で全然ちがうスタイルで長い髪の少女をやった。
ディブが「どうぞ」って歌った時、ジョーちゃんが、僕の後ろに引いてあった赤いカーテンのあたりが「アイなんか臭くないか」といって カーテンをめくったら俺の後ろから火が襲って来た。
よっぱらっている外人とか兵隊がいっぱいいたんで、そこに大きな声で「Fire!Fire!」って言って火事を知らせた。
ところが、 Fireという曲があったので、それをやるのと勘違いして客席から「Comon」と声がかかった。
火事にあってドラムが焼けて、ドルだったギャランティがまだもらってなかっただけど消防士が(消火の時にそのお金を)踏んでしまってダメになり、なけなしで帰るという悲惨な最後でした。


6/26にQUEENでLIVEが決まっている竹田和夫さんの2年前のQUEENでのLIVEの時の話。
LIVE終了後、打上げの時に・・・
「松田優作さんの1981年「HARDEST NIGHT LIVE」全国ツアーの音源がCDになってます」
と私が話すと竹田さんはそれを知らず
「聴きたい」と、、、
 (竹田さんはLA在住なのである)
優作さんの歌う「横浜HONKY TONK BLUES」でのメンバー紹介・・・
「ブルースギター・・・エディ藩」
「ヴォーカル&パーカッション・・・アイ高野こと高野元成」
「リードギター・・・竹田和夫」
曲が終わってから数分間、竹田さんは天井をずっと見上げ、身動き一つせずに佇んでいた。
そしてどこか遠くを見ながらポツリと・・・
「このツアーは最高に楽しかったんだ」



さあ!みんな、元気で精一杯生きていこう!

 4月3日(月)
妖艶
切ないほどの色気
哀愁と激情と官能
むせかえるほどの色香

さまざまな人種が交差する雑然とした港町で生まれた音楽…タンゴ

自分にとってタンゴはチョット特別な音楽。
初めてタンゴという音楽を知ったのは映画「ラストタンゴ・イン・パリ」なのである。
当時は、「芸術かワイセツか」と騒がれていた超話題作だった。
  (高校生だったアタシは…もうタイヘンでした。当時のポスターまで覚えているんです…)
今ならばどうって言うこともない描写なのだろうが、当時はもう「鼻血ブ〜」
今観ればとてもエレガントな作品だろう。
マーロン・ブランドが素敵だった。

パリの酒場でのシーンが印象的だった…
女はオンザロックスのスコッチウイスキーを飲んでいる。
「私を愛しているなら全部飲め」と言う男。
「OK,I LOVE YOU」とスコッチを飲みほす女。
スコッチの酔い、タンゴの強烈なリズムにまかせて「君を愛している」と告白する男。
「もっとウイスキーを」と女は男にグラスを差し出す。
男はシャンパン・グラスでスコッチをストレートでガンガン飲んでいる。
充分にスコッチを味わった男と女は、ホールの中央に立ちタンゴを踊る。
そしてそれがラストダンスに・・・。
      (こんな感じだった)


タンゴを聴くとフツフツと沸いてくる感覚。
 押さえつけていた何かが解き放されるような…
 そう、何か「禁断の扉」に手をかけて開けようとするような…
 チョロチョロ燃えていた火がボワーっと大きな炎になる寸前というか…
 

今夜のヴァイオリンとピアノのタンゴの夜、古橋ユキさんと須藤信一郎さん。
先日二人の演奏を聴きました。素晴らしいです! 
是非ともレベルの高い二人のタンゴを味わって頂きたいです。

 3月31日(金)
早い!
あっっっという間に3/31・年度末ではないですか!
このHPのアクセスカウンターも10万を越えました。
あらためて感謝・感謝でございます。
皆様どうもありがとうございます。

続く・・・・

 3月20日(月)
凄いといえば、昨日書いたWalter Langさんも凄いけど、
今夜の小川紀美代さんのLIVEも凄い。
小川さんは日本国内屈指のバンドネオン奏者。
バックを務めるギターの宮野弘紀さん・ベースの吉野弘志さんもベテランの素晴らしい方々だ。
バンドネオンはなんとも言い表せない不思議な音だ。
張り裂けそうな情熱と今にも壊れそうなガラスの様な哀しみ・・・
     (ボキャ貧)
今宵はゆっくりとお酒を飲みながら、粋なタンゴの調べに酔いしれてほしい夜だ。

 3月19日(日)
今月号のスイングジャーナル誌をいつものように読んでいると、、、
何と!見開きのカラーページに3/1に書いた「I am Walter Lang・・・」の
ウォルター・ラング・トリオがッド〜ンと載っているではないですか!
こんな感じで掲載されています。


【スイングジャーナル主催第39回(2005年度)
ジャズ・ディスク大賞
最優秀録音賞(CD作品部門)受賞
『WALTER LANG TRIO
the sound of a rainbou 』

透き通る空気感、存在感溢れる豊かな音像が、2005年度最高のピアノ・トリオ・サウンドと讃えられた!
受賞記念ライブ・ツアー 5月急遽決定!! 】

いやいやビックリしました。。
ワタシは「あはん」なんてばかり言っちゃって・・・
ダスコさんの紹介だけあって、やはり凄い方だったのね。

 3月1日(水)
1月の半ばぐらいの程よく忙しい夜だった。

電話が鳴りQUEEN Hiromiがいつものように「はい、QUEENでございます」と話し始めると・・・
しばし沈黙・・・。

しばらくして「何か解んないけど英語」と受話器を私に差し出した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  
  「Halo.Nice to meet you.
   I am Walter Lang that lives in Germany. 」

「あはん??」

  「I want to perform with your club and am calling. 」

「あはん??」

最初は誰かが、お客様や知り合いがふざけているのかと思った。
それほど日本人が一生懸命話す英語のようだったのだ。
けれどもそれは一生懸命話すドイツ人の英語だったのだ。

なんて聞き取りやすい英語なのだ。
こんなBarの親父でさえも分かる英語なのだ。
(後日、長年ドイツに住んでいた親戚にその事を話すと、ヨーロッパ、特にドイツ人の英語は日本人とあまり大差がなく、とても楽だとの事だった)

なんとなく理解してきた私はやっと英語で答えたのであった。

「uh‐huh」

理解した後は「あはん」の発音も違うのだ。(と思う)

  「I go from May 16 to the 28th to Japan by my piano trio. 」

「uh‐huh」

  「Please let me perform with your club.」

「uh‐huh」

待てよ??
どうしてドイツのピアニストがこんないわきのBarを知っているのだ。
もしかしたら誰かの紹介なのだろうか?
聞いてみよう!と思い

「Mr.Walter Lang. あ〜 ん〜 ah〜
Why did you あ〜ん〜 ah〜 learn my Bar?」
と話し始めると何と!
思いと言葉が同調しないのだ。

ようするに喋れないのだ!

外人さんが飲みにいらしている頃は結構話せたのに、最近はその外人さんも日本語が上手になってきてずっと日本語でばかり話していたのだ。

これには困った。
結構英語での会話は不自由しなかったのに何ヶ月も英語を話さないと言葉が出てこないのである。

それでも通じたのか

  「Your thing was heard from Mr. DUSKO GOJKOVIC. 」

「Oh. DUSKO! Mr. DUSKO!!」

”デュスコ・ゴイコビッッ”としか聞き取れないのだが、それは正に世界でも指折りのトランペッター“ダスコ・ゴイコビッチ”さんではないか!
QUEENでは2002年と2003年に演って頂いている方なのだ。
そうかぁ、ダスコさんの紹介かぁ。
これは演らねば!と言う事で

「Of course, it consented play in my place. Please exchange it by E-mail in the future. 」

と、何とか伝え電話を切った私であった。

こんな短い言葉を伝えられない自分が切なくて・・・

その後アルトサックス奏者でブルースマンで英語の先生の Jhon にお願いして直接話をしてもらい、その後もメールのやりとりを何度かして、LIVEは5/22に決定した。

来日してQUEENで演る時にはもっとスラスラペラペラ英語で喋ってやるぅ〜!

彼のHPです。
http://www.walterlang.de/

 2月28日(火)
久々の独り言。。。

2/26のプライベートなLIVE(貸切)から3/9の「HARP MADDNESS」まで10日間QUEENの通常営業が続く。
店はいい感じでやれているのかな?と自分自身に問いただすいい機会である。
所詮Barの親父なんて回りを気にして自分の店はお客様の指示はちゃんと受けているのだろうか?などと おろおろする事ぐらいしか出来ない気の小さい生き物である。
これだけ数あるお店から「今夜は○○に行こう」とお客様が選んで下さって成り立っている訳で、「○○はつまんねぇよ」なんて事になればそれでダメになってしまうような商売なのである。

んっ???
「数ある」という言葉で何故か胸がキューンと・・・

30年ぐらい前の話。
(ここからは小沢昭一さんの口調で・・・)
吉祥寺の近鉄の裏、といえば11PMやトゥナイトという深夜番組のムフフ特集によく取材される、いわゆるピンクゾーンなのでありました。
当時、世のお父さん達は仕事の疲れを癒しにたまのお出かけでご利用と言いましょうか・・・お世話になっていたのでありました。
当時ワタクシの同級生がそこの地域一番人気店でアルバイトをしていたのであります。
彼は某大学生でありながら「俺は第二のキャバレー王 福富太郎先生のようになりたい!」と宣言。
まずはそこの店長さんを目指し、日夜努力を始めたのであります。
三鷹にある彼のアパートに遊びに行きますと、彼は一生懸命マイクを持つ仕草でなにやら 今で言うラップの様な、リズムに乗った言葉の波とでも言いましょうか・・・言葉の嵐とでも言いましょうか・・・
大声で発声練習の様な不思議な訓練をしていたのであります。
始めは早口でよく聞き取れなかったのですが、何度も聞いているとやっと理解出来てきたのであります。

♪「本日は中央線沿線数ある社交場の中キャバレーク●ーンをご指名ご来店誠にありがとうございます。♪当店No.1人気のア○ミさん1番テーブル御指名です♪入店2日目のピチピチのニューフェイスヒ○ミさん3番テーブル・・・・・」♪
お客様がいて、売れっ子ホステスさんと、そのヘルプがいて、ボーイさんがいて、マネージャーさんがいて、店長さんや支配人がいる。
クラブだったならチーママがいて、ママがいる。
そんな世界を、巧みに操って場を盛り上げる「キャバレートーク」の練習だったのであります。
彼は経済学部だったのですが本当の現場で1970年代の経済を学習していたのでありました。

「数ある」という言葉一つでこんなバカな事を書いてしまって・・・

反省。

その後、彼は店長さんに昇格、そして数店舗を抱える統括マネージャーまで登りつめたのである。
そんな彼から「息子が大学3年で吉祥寺に住みやがってさぁ」などと聞きますと、あの頃のヤンチャが懐かしく、胸がキューンとなったのである。
そう、街には「わかって下さい」が流れていた頃である。

こんな田舎の街でも飲み屋さんは結構な数があります。
数あるお店の中でQUEENを選んで頂き本当にありがとうございます。
通常のQUEENは、毎日変わらぬ笑顔と落ち着いた雰囲気で皆様をお待ちしております。

 2月16日(木)
2/11は、地元のバンドの方が主催のLIVEだった。
ベンチャーズと寺内タケシさんのコピーバンドが4バンド。
最高の盛り上がりで無事終了。
企画から運営まで、中心となって活躍したHさんには心から「お疲れ様」と敬意を表したい。
このLIVEのきっかけは、毎年の夏の恒例行事、小名浜ら・らみゅうで行われる、いわきベンチャーズさん主催の「全国ベンチャーズエレキ合戦」に出演するバンド同士の交流から生まれたのだ。
「いわきの冬はメヒカリとアンコウが一番美味い、是非ご馳走したい」という事で打上げも盛り上がり、素晴らしいひとときだった。

2/12は、「やまだけいこ」シャンソンナイト。
テーブル席が満席で、明かりを落とした店内にろうそくの炎が揺れて大人の時間を満喫した夜だった。
ピアノと歌だけのステージ。
シャンソンの持つ要素……センチメンタル、エスプリ、シニカル、ユーモア、演劇性・・・
浪曲とシャンソンがまったく同じ世界を持つことを再確認した。
語り・・・、歌・・・、そして三味線とピアノの間・・・。

2/19は「因幡晃」さん。
チケットは12/3発売当日、でSOLD OUTになってしまったのだが、今日の今日までお問い合わせのTELが毎日1、2回はあるという凄い人気である。

1976年から77年、街には「わかってください」と「ホテルカルフォルニア」が流れていた。
当時は、太田裕美さんが木綿のハンカチーフ、百恵ちゃんは横須賀ストーリー、クールファイブは東京砂漠・・・
そしてQUEENのBohemian Rhapsody、ABBAのDancing QUEEN・・・

昨日何を食べたのか忘れているくせに当時の事は溢れるほど出てきてしまうのは何故だろう。
年をとった証なのか!
あの頃の自分はクラプトンのオーシャンブールバーズをいつも聴いていた・・・。

ジャンルを越えて音楽という世界を楽しむ世代を超えたお客様の笑顔。
この仕事(店)をやっていて本当に良かったと思う瞬間である。

 2月8日(水)
PCが直ってきたので親父のブツブツは、明日から再開…(予定でした)



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